4月20日、検見川送信所を知る会で会合を持ちました。メンバーは地元住民、送信所OB、建築関係者、地元自治会関係者、放送関係者ら計8人。4時間に渡り、今後の活動方針などを話し合いました。
保存運動を成功させてきた建築関係の方からは、地元の目線が大事だということが強調されました。
つまり、地元が建物に対して、いい印象を持たなければ、運動はうまくいかない、と。たとえば、お掃除隊のようなものを結成し、手弁当で町の美化に努める。市当局、地元自治体の理解が必要となりますが、やる価値は大いにあるでしょう。今後、詳細を詰めていくことになります。
また、送信所と町の関わりについては興味深いお話が。
送信所全盛期は無線塔が十数個立ち並んでいました。海岸が埋め立てられる前、検見川町は漁師町。漁師たちは無線塔を灯台代わりに港に戻ってきたそうです。送信所は定時のサイレンなども流していたそうで、畑や会社勤めをしている人々は時刻を知る手立てにもなっていたそうです。町と検見川無線は今よりも密接な関係にあったんですね。
閉局して30年。それらはすっかり過去のものになりましたが、新検見川駅からほど近い場所で、町民と送信所の密接な関わりを記す石碑が残っています。ここで学んだ方々の有志が校歌を刻んだものです。

現在、花園中学校がある場所です。ここには千葉県立千葉工業高校がありました。
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千葉工業高校HPより千葉工業高校は昭和14年1月25日、千葉市寒川から花園町1108番地に移転。校歌は同年9月7日、作詞大木惇夫氏、作曲乗松昭博氏に制定されました。
千葉市2度目の大規模空襲「七夕空襲」(20年7月7日)の際に、校舎の約4分の3が焼失したそうで、その後、千葉市稲毛町日本バルブエ場付属青年学校を借用して授業を再開しました。
以下は校歌の4番の抜粋ですが、工業高校だけに、「ダイナモ」「ハンマア」といった言葉が織り込まれています。そして、最後は「無線塔を高空に、仰ぐ希望の光、われら」と結ばれます。

昭和14年当時、校舎からは無線塔がよく見えたでしょうし、ハイテク施設だった送信所に就職を希望した人、実際に働くことになった人も少なくなかったのでは、と考えられますね。

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- 2008/05/07(水) 20:17:27|
- 検見川送信所
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