
2007年7月、サイクリングしていたとき、検見川無線送信所(千葉市花見川区検見川町)に出会いました。
不思議な光景でした。住宅地の真ん中に野原が広がり、その一角に送信所は寂しげに、しかし、力強く建っていました。

送信所は80年以上、ここに建っていたのです。
20世紀初期、世界の通信は海中ケーブルを持つイギリスが優位に立っていました。しかし、無線技術の発展により、状況が一変します。植民地を持つ先進国が国家事業として、無線基地の建設に乗り出したのです。そんな中、日本もアジアの通信網を掌握しようと、送信所の建設を決めたのです。
検見川は(1)東京近郊にあり、(2)平地だったことから、建設地にはうってつけでした。当時は埋め立て前で、目の前には東京湾を望むことができたそうです。地主たちはこの国家事業に協力し、膨大な敷地を提供しました。
1923年9月1日の関東大震災の影響を受け、日本の通信計画は縮小されましたが、1926年、検見川送信所は完成。設計を手がけたのは後に東京中央郵便局、大阪中央郵便局などで知られる逓信省営繕課の
吉田鉄郎氏。建物のデザインはシンプルですが、角に丸み、窓のアーチがあるのが特徴。ドイツ表現主義風の影響を受けている、と言われます。また、その構造は艦砲射撃にも耐えうるように作られた、とも聞きました。
洋風な建物は古い漁師町だった検見川町で異彩を放っていたようで、「白亜の局舎」と呼ばれていました。
送信所は当時、ハイテク最先端の場所で、短波、長波、標準電波の研究が行われ、国産初の無線機J1AAを開発するまでにいたりました。
1930年(昭和5年)10月27日に日本初の国際放送を成功。時の首相の
浜口雄幸氏の平和の声を米英に届けたのです。
戦時中は軍事利用され、植民地への放送を行ったようです。しかしながら、終戦の日、資料はすべて焼かれ、詳しい資料は現在残っていません。
千葉市は太平洋戦争で2度に渡る大規模空襲を受けましたが、送信所はその被害からも免れました。ある人は「米軍は占領した際の拠点にしようと思ったのではないか」とも言います。
開局当時の検見川無線送信所しかし、1972年(昭和53年)、通信事情の変化と周辺の宅地化に伴い閉局。無人化した局舎はやがて廃墟となりました。
数奇な運命を辿った無線局は貴重な
近代化遺産ですが、千葉市は同所を中学用地と決めており、計画通りに進めば、取り壊されることになります。

僕はこの建物をなんとか残したいと思い、仲間とともに「検見川送信所を知る会」を結成。この
建物の本当の価値を学び、伝えるための活動を行っています。
この趣旨に賛同してくださる方は以下のソースを貼り付けてください。
<a href="http://moleskine.air-nifty.com/photos/kemigawamusen/" target="_blank"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000060947/20/img2159e7f1zik6zj.jpeg" width="170" height="60" alt="musenhozon.jpg" border="0"></a>
「検見川送信所を知る会」では仲間を募っています。入会していただける方は
こちらのメールフォームから「入会希望」と明記の上、
お名前(ふりがな):
ご住所:〒
電話番号:
メールアドレス:
をお知らせください。
メールマガジン「検見川送信所J1AA通信」を購読していただける方は以下のフォームからお申し込みください。
テーマ:建物探訪 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2007/12/10(月) 00:52:33|
- はじめに
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0